小 説 コーナー


                        街道レーサー
キャスト
横浜/本牧埠頭。 反町に住む山田良人は2006年新型スポーツカー、アウディーR8で毎晩本牧埠頭を走り回っていた。
秦野/ヤビツ峠。小田原の五里万太(ゴリマン・ふとし)のステージは深夜のヤビツ峠だった。愛車はポルシェ911GT3・RS。
箱根/湯ノ花スカイライン。東林間の斉木郷はトレーシースポーツ・ワイドボディーS2000で湯ノ花スカイラインを根城とする。
横浜/大黒埠頭。 戸部のカメ西は大黒埠頭暴走族の王者であり、BMW Z4・Mクーペで、日々パトカーとバトルをしている。
檜原村/奥多摩周遊道路。 町田の加藤幸介は親友のオクヤマがデザインしたエンツオ・フェラーリを駆り奥多摩でバイク連中とバトっている。
東京/湾岸道路。 中島守はランボルギーニ・ムルシエラゴ・LP640ロードスターに乗り、高速湾岸番長である。
甲州街道/大垂水峠。 菊池雪男はパガーニ・ゾンダロードスターFでローリング族の頭領。
群馬/榛名林道。 塚石タガヤスはベンツ・CLK・GTRを操り林道走りの神様と呼ばれている。
東京/広尾。 石原メグ…謎の大富豪
街道レーサー
2007年4月、深夜の本牧埠頭には20台ばかりのチューニングカーが集まっていた。ガラ〜ンとした埠頭は恰好のサーキットだ。いつものとおりアメリカン方式の競争が始まるのだが、胴元が賭金を集め始めている。何と言っても一番人気は山田の
アウディーR8で、ギャラリー達の掛け金も一番多い。白線を引き2台づつの総当たり戦で、スターターの合図で埠頭を一周す
る。今日もR8が勝ち進み、優勝配当金230万円を手にした。同じように目と鼻の先の大黒埠頭では、カメ西のBMW
Z4・Mクーペが見事なドリフトを決めてスプーンカーブを駆け抜けている。ここ大黒埠頭でのバトルはD−1スタイルの
高速ドリフトの華麗さを競う。ここでの掛け金は暴力団・カメ西組が仕切っていて、ギャラリーの多さが掛け金の多さとなり、
本牧埠頭のそれを大幅に上回る。しかし馬券方式で賭博が行われるので、一人が手にする金額は分散される。
一方、五里万はポルシェ911GT3・RSでヤビツ峠を駆けめぐっていた。バトル相手はラリー選手達だ。昔は頂上南側はダートで、わりと広い道だったが、今では舗装されたおかげでガードレールが付いた分だけ狭くなり、視界的にも非常に狭く
感じる。今ではドリフトでもしようものならお尻がガードレールにヒットしてしまう。バトル相手の車両は主にインプレッサと
ランサー・エボだ。ポルシェRSはNAゆえに懸命に高回転を保って走らなければならず、峠ではコーナーに全てのギアが
マッチすることはなく、苦しい戦いではある。インプやエボはターボ車なので、エンジンが3000回転以上回っていれば、
アクセルを当ててやるだけで強烈なトルクとパワーでグイグイと駆け進んで行く。ヤビツ峠は秦野方面から入って、
3キロほど行くと民家が途切れ、そこから頂上まで7キロをタイムアタックするのである。スタートとゴールには計時係が居て
ナビゲーションのGPSから送られてくる時計で計測する。今のところ五里万に敵う者はいない。  斉木郷は朝型人間だ。
休日の朝5時には家を出る。住まいがキンツマ(金曜日の妻たち)で名の知れた東林間の高級住宅街のために、高度に
チューニングされたS2000の排気音に気を使い、排気管の途中にスラストプレートを取り付け、排圧を押さえて家を出る。
箱根に6時に到着し、乙女道路から長尾峠へと右折して行く。この峠は見通しのきかないコーナーが多く、しかも蓋のない側溝があるので相当な注意が必要になる。先ずは足慣らし程度にしておいた方が無難だ。そしてその先の湯ノ花スカイラインが
いつものステージである。ここは早朝組が多く、ガラガラ空きのスカイラインを目一杯攻めるので一般車の出回る頃には
引き揚げるのである。高速コーナーも多く、まるでWRCラリーのステージのようだ。いつものメンバーはレース屋が多く、
マツダ・ロードスター・フルチューン連中、ロータスエリーゼ、S2000といった軽量2座席スポーツカーが主流だ。
先ずは一旦頂上駐車場に集結し、隊列でバトるのである。最初の右コーナーはゆっくりと回り込み、次の左コーナーから
全開をくれてやる。下り坂で4速160キロでる。次の左コーナーは3速に落とし100キロで旋回してゆく。
これはもう心臓バクバク、胸ワクワクである。ここはドリフターではなくタイムアタッカーばかりだ。町田の加藤幸介も早朝組で、
ツーリングをこよなく愛す。好きなコースは道志街道で、途中から都留市に抜ける峠道を攻める。そして猿橋から松姫峠を
駆け上り、小菅村から鶴峠を下りきらずに左折して奥多摩周遊道路へと入って行く。最近はここもローリング族の取り締まり
に警察が出張ってくる。この道は中央分離帯にコーンが埋め込まれたので、4輪よりもバイクの天下だ。幸介は愛車エンツオ・
フェラーリでバイク連中を蹴散らして愉しんでいる。元 ISCC クラブ員だけあって、ドラテクはそうとうなものだ。そして今では
走り屋仲間では有名になりすぎた感がある大垂水峠で、菊池雪男はパガーニ・ゾンダロードスターFで夜な夜なチャレンジャー
待ち受けていた。彼はけっして昼間にパガーニを乗り回すことはない。なぜなら日本には一台も輸入されていないことになっ
ているからだ。たしか10台前後しか生産されていないはずだ。雪男は親からの相続で得た大金で、イタリヤの大富豪ヨシノブから購入し、秘密裏に日本に持ち込んだのだった。これが知れ渡ると誤魔化した相続税が税務署に察知されることになるので
、公にできないのだった。ここ大垂水峠ではGTRやシルビアやフェアレディーZなど日産勢とセブン(マツダRX7)が多い。
これにバイクも絡んでくるから始末に悪い。ガードレール越しや土手の上にはいつもギャラリーが鈴なりだ。
たとえクラッシュしてもアッという間にギャラリーが手伝って治してくれる。
この峠はどちらかというとドリフターが主流で走りの華麗さを競っている。所変わってここは榛名山。榛名山には3本の長い
林道がある。タガヤスはベンツ・CLK・GTRで縦横無尽に林道を駆けめぐる。3本の林道とは、唐松林道・松の沢林道そして
榛名林道である。それぞれ麓から頂上の榛名湖まで続いており、この3本で一日中楽しめる。
孤独を愛するタガヤスはただひたすら駆けめぐる。走って走って走りまくる。  そしていよいよここは東京湾岸道路。
深夜の最高速を競いあうのだ。300キロをゆうに越える車だけに与えられた特権といってもよい。中島守はランボルギーニ・
ムルシエラゴ・LP640ロードスターで湾岸番長の名を欲しいままにしている強者である。ここではちょっとの判断ミスで
命を落とす者が後を絶たない。このランボルギーニは4輪駆動だが、操縦性の良さはピカイチで非常にコントロールしやすく出来上がっている。300キロ越えでのトンネルの通過時などは、視界が狭まりF1以上の度胸と正確な操縦が要求されるので、
タイヤはセミレーシングタイヤのヨコハマA048Rを履き、エア圧は温間時でフロントが1.95にリアが1.90になるように設定してある。
街道レース
2007年5月、大富豪・石原メグは面白い金の使い道がないものかと思案の日々をおくっていた。
そんなある日、本屋でふと目にしたオプションというカー雑誌である。まぁこの本は若い走り屋相手の雑誌でつまらないといえばつまらないのだが。今月号は特集で峠の走り屋を取材している。日本全国にはこんなにも峠の走り屋がいるとは
想像だにもしていなかった。読みふけってふと思いついた時に、体中を稲妻が走り抜けたような衝撃を覚えた。
「こいつは面白そうだ」。公道での走り屋「街道レーサー」を真剣勝負させるのだ。しかもそこらの半端者ではなくて超一流を
集めてみよう。賞金もケチったりせず10億円も出せば命がけの最高のレースが見れる筈だ。すぐさまオフィースに飛んで帰り
、日本一の探偵事務所「トレチェント」のドン吉に指令を出した。「腕も車も最高の街道レーサーを集めろ」。1時間後に揉み手を
しながら現れたドン吉にメグはポンと破格の調査費1億円をテーブルに放り投げた。そしてドン吉はあらゆるカー雑誌に
広告を出して参加者を募ったのである。2000人の応募者は峠コースに似た水上のサイクルスポーツセンターでふるいに落とされることになる。
いわば予選だ。このサーキットはロードレースの為につくられたコースだが、自動車レース(タイムトライアル)にもよく使われる。毎月ある雑誌社主催のチューニングカーの王者をかけたショップカー対戦も行われている。
土屋圭一が審判を勤め、その都度DVDも発売されて良く売れているようだ。伊豆にもロードレースのコースがあり、
昔は自動車のレースや練習会に貸しだししていた。ところがクラッシュやコースアウトが多くて植裁や構築物がメチャメチャに
壊されるので、貸してくれなくなってしまった。いくら弁償してもらっても、修復中は使用不可となりデメリットの方が多いのであ
る。話を戻すと、予選で選考されたのは初めに登場した8名/8台だ。これには流石のメグも大満足の様子だった。
2007年7月夜9時、箱根ターンパイク麓の待避所には8名の参加者がいた。それぞれの車両にはビデオカメラが3台づつ取り付けられている。メインカメラはドライバーの後方からで運転操作と車両前方視界を写し出す。
2台目は助手席下方からドライバーの顔つきを写し、3台目は車内から後方を捉える。
そして全員、無線ヘッドセットを付けている。音も映像もメグのオフィースのモニターに写し出される。
9時59分、メグから指令が飛んだ。「全員、スタート位置に着け」、ターンパイクは広くて8台が横一列に整列できる。
10時00分、「スタート!」とメグが大声で言い放った。各車けたたましいタイヤ音を残しロケットスタートして行った。最初の緩い右カーブに差し掛かったが、200キロをゆうに越えるスピードを落とそうとしない。
モニターを見ているメグは各車に同乗している錯覚に陥り、その恐怖に思わずギャーッと叫んでしまった。
郷のS2000とカメ西のZ4がサイドを擦り合い一歩遅れをとる。6台は依然横並びだ。次の左カーブは150Rで150キロまで
落とさないと廻りきれないだろう。ブレーキングで差が出た、車重の軽い雪男のパガーニ・ゾンダが有利だ。これに幸介のエンツォ・フェラーリがつづく。このままの状態でターンパークを通過し、全開で大観山レストハウスを左折し
湯河原へとツバキラインを下って行く。ここはバイクの遊び場となっていて道幅は狭くコーナーも鋭角で下り坂もきつい。
ここで雪男が手痛いシフトミスをしでかしてしまう。4速から3速に落とすところを1速に入れてしまい、真っ白なタイヤスモーク
をあげての強烈なスピンでアウト側のガードレールにテールをヒット。その間に全車に抜かれてしまった。
だがレースは始まったばかりで、これから伊豆方面の峠道をいくつも走破していかねばならない。ツバキラインで有名な
コーナーがある。下って行くと右のヘアピンカーブなのだが、そのカーブの左側に黒白林道への入り口がある。
そこが広場みたいになっていてバイク連中のギャラリーポイントになっている。まだ団子状態の8台は、このカーブに迫ってきた。4番手のカメ西Z4・Mクーペは、ここでマシーンを真横にした4輪ドリフトに打って出た。
後続車はたまったものではない、否が応でも必要以上に減速しなければならず、カメ西の思うツボだ。
ドリフトしたカメ西はクリッピングポイントを奥にとり、立ち上がり重視で下りの直線でスピードをのせて、後続をジリッっと引き
離した。ツバキラインも終盤に差し掛かった所に、上りと下りが50メートルに渡って二股になっている所がある。
ここで6番手の山田のアウディーR8が勝負に出た。二股の右側上り車線へと突入したのだ。出口合流地点でZ4・Mクーペに並び、2台ぴたりとくっついたまま突き進んで行く。どちらも譲らず次の右コーナーへと向かうが、どうしてもアウト側が不利で
遠心力も加わり、R8とガードレールに挟まれたカメ西MクーペはR8に先を越された。
ツバキラインを抜けて、T字路を右折して湯河原パークウェイを湯河原峠へと駆け昇って行く。ここの上りは流石に排気量の
小さいマシーンには不利で、斉木郷のS2000はジリジリと引き離されて、とうとう最後尾となってしまった。
湯河原峠から十国峠・熱海峠を経ていよいよハイライトの伊豆スカイラインへと入っていった。なんとここまで40分しかかっていないから驚きである。伊豆スカイラインは中伊豆までの35kmで、途中に山伏峠・亀石峠など難所が多数有るが、
何と言っても長いストレートが多く、そこでは下り坂ということもあり、350キロ以上のスピードを出さないとブッチ切られる。
やっとペースをつかんできたのがゴリマンのポルシェ911GT3・RSと幸介のエンツォ・フェラーリだ。雪男のパガーニ・ゾンダと
の三つ巴となった。2番手グループはR8とZ4・クーペで最後尾をS2000とCLK・GTRが競っている。一方、メグは
オフィースでレースを存分に愉しんでいた。彼らの一挙手一頭足が手に取りように見えるし、300インチのメイン
モニターではレースの模様が大迫力で音響と共に伝わってくる。      
死闘
勝負所の伊豆スカイラインに入ると、2番手グループで競っているカメ西Mクーペが山田R8に遅れをとり、3番手グループに迫られ始めた。
すると隠し持っていた鉄ビシを窓からばらまき始めるのだった。これに気付かぬ3番手グループの郷S2000とタガヤスCLKは、もののみごと
に鉄ビシを喰らってしまった。280キロで競っていた両車は強烈なスピンで、お互いにぶつかり合い回転しながら白煙をあげて、ひたすら流れて
行き、次の左コーナーの土手に刺さっていった。室内に張り巡らされたロールゲージとサベルトのフルハーネス・シートベルトで一命は取り留め
たがCLKのタガヤスは、頸骨に損傷を負ってしまった。S2000はレカロのレーシングシートを装着しており、これは顔の左右までシートが張り
出ていて、衝撃時に頭が振られないようになっている。このシートのお陰で郷の首はしっかりと守られていた。しかし二人とも無念のリタイヤだ。
そのころ先頭グループは亀石峠にさしかかろうとした。すると突然道路にイノシシが現れた。先頭の幸介エンツォ・フェラーリは強烈な
ブレーキングで100キロまで減速し、衝突寸前でアクセルを開けてスルリとかわした。犠牲になったのは、その後ろをカッ飛んでいたゴリマンの
ポルシェだ。1歩後ろを走っていただけに発見が遅れ、かわそうとしてマシーンを斜めにしてドリフト体勢に入ったが、ここは直線ドリフトとなり
土手っ腹からイノシシを跳ね飛ばした。ゴリマンにイノシシをどけて貰ったおかげで、雪男パガーニは横をすり抜けかろうじて命拾いをした。
ゴリマン・ポルシェは衝突の衝撃で、ドライバー側である左ドアーが吹飛び左肩を骨折した。これで生き残りは5台となった。
亀石峠を抜けると長〜い下りのストレートと緩やかな高速コーナーが続く。どうしたことかここでカメ西が夜空に向けて照明弾を放った。
もちろん車内に設置されたカメラに映らないように巧妙にだ。その時、先頭集団の幸介フェラーリと雪男パガーニが長いストレートを走って
いたが、この二人にもメグから無線が入った。カメ西がこっそり放った照明弾を、後続の中島ランボルギーニの車載カメラから発見し、
そのことを少し遅れた山田R8を含めた三人に伝えたのだった。三人は同時にしっかりとブレーキングしてカーブを曲がると、そこには
バリケードが置かれていた。
しかも機動隊が使う鋼鉄製の長く尖った角の出ているやつだ。その一つを退けて先に進み、また同じようにバリケードを置き直した。
カメ西の手下が出て来れないよう15秒ばかり待つと、Mクーペの轟音が近づいてきた。とっさに三台は急発進してレースへと復帰する。
コトは済んだと信じ込んでいたカメ西は、手下に命じて設置したバリケードに自ら突っ込んで行った。バリケードの槍のような尖端がドアに
突き刺さり、さらにドアを突き抜けてカメ西の横っ腹や首にも突き刺さった。即死だった。中島ランボルギーニにもメグから無線が入り、
幸いにもココはうまくすり抜けていった。伊豆スカイラインを冷川で降り、修善寺に抜けるのだが市街地で真夜中だというのに警邏中の
白黒パンダに遭遇した。さすがにヤバイ。ここは素知らぬ素振りで我慢の通過を決め込むしかない。とうとう中島に追いつかれ四台が
振り出しに戻った。修善寺温泉から戸田峠に上って行き、左折して西伊豆スカイラインへと入って行く。ここは昼間なら見晴らしの良い
絶好のドライブコースだが、スピードののる恰好の公道サーキットでもある。四台が団子状になってレースしている様は、ファンタスティックと
しか言いようがない。先頭からエンツォ・フェラーリ、パガーニ・ゾンダ、アウディーR8、ランボルギーニ・LP640の順で連なっている。
だがここでは誰も仕掛けようとはしない。お互いの技量を試し合っているようだ。波乱もなく各車レーシング走行を愉しみながら国道136
号線へと降りて行く。ここで中島LP640が勝負に打って出た。真夜中とはいえ信号機は機能している。赤信号で一瞬躊躇した他車を
一気に抜き去った。あわてた三車もLP640の後方にピタリと迫っている。40年ほど前のヨコハマの本牧党の暴走を見ているようだ。
136号線の伊豆長岡に差し掛かった時に、今度は最後尾から山田R8が対向車線にでた。なんとこの先の左車線が道路工事中で狭く
なっていた。このことを山田はナビゲーションで察知していたのだ。道路工事に気付くのが遅れた先頭の中島ランボルギーニは、
急ブレーキでしのごうとしたが間に合わず、工事中の盛り土に乗り上げ2メートルほどの高さで舞い上がった。後続車たちはジャンプ中の
ランボルギーニの下を猛スピードで通り抜け難を逃れた。舞い上がったランボルギーニは体勢を崩して、屋根から道路に叩き付けられた。
逆さまになったまま道路を滑って行き、先にある信号機の鉄柱に真横からぶつかり、車体はポッキリと折れ曲がった。中島は凹んだ屋根に
頭が擦られつづけて、コレが原因でとうとうハゲチョビンになってしまったが、幸運にも一命は取り留めた。
生き残った3台は三島で右折して1号線に入り、芦ノ湖方面へと上っていった。この1号線は深夜には交通量も非常に少なく、二車線あり
バトルには最適の国道である。R8,フェラーリ、パガーニの3台は車線いっぱいを使ってバトルを演じ、大接戦のまま箱根峠に来た。
ここを左折して、いよいよこのレースのハイライトでもあり、最終ステージでもある湯ノ花スカイラインへと入って行く。
夜間閉鎖されて無人の湯ノ花スカイラインの料金所ゲートを最初に通過したのは、エンツォ・フェラーリだった。アウディーR8、パガーニ・
ゾンダと続く。左に遊覧ヘリコプター乗り場を通過し、右の駐車場(通称:やぎさん広場…人気者のやぎさんが居て、眼下に芦ノ湖が見え、
西には富士山と駿河湾が展望でき人気スポット)を過ぎるとタイトな右カーブとなる。次の左コーナーから下りの長い直線が続く。
2車線いっぱいに3台が横並びになり、次の左中速コーナーとなる。ここで3台が譲らず、横並びでコーナリングに入った。ここで一番右を
走っていた雪男パガーニは、中央の山田R8に体当たりされる恰好で右の広いダートにはじき飛ばされスピンし、凄まじい勢いで土手に
張り付いた。R8も体当たりの反動で左端のフェラーリと接触し、強烈なカウンターステアで体勢を整える。その間にパガーニもコースに
復帰し、先行の2台めがけて突っ込んだ。突っ込まれた2台は次の右コーナーに向けてステアリングを切り始めていた時だけにたまった
ものではない。お尻が左に向けて大きく流され、2台からまってスピンし、パガーニはそれをすり抜けて先頭に立った。スピンから先に
立て直したのはR8だった。この先は高速コーナーが多いが、下り初めてから湖尻の三叉路では横一線となった。このレースは、残り5キロで
箱根スカイラインを残すだけとなった。さすがに手練れが生き残っただけに差が付かない。夜は無人の料金所ゲートを先にくぐった者が
勝者となる。左最終コーナーを抜け、一気に加速し、ゲートへと突進する。だがゲートは二つしかない。3台が擦り合いながらゲートに近づい
てきた。先にゲートに鼻先を入れたのはパガーニとR8だった。エンツォ・フェラーリは2台の真ん中から料金所のブロックに激しく衝突し、
1億2000万円のマシーンは鉄屑と化した。自家用ヘリで先にゴール地点に到着していたメグは言った。「勝者は一人だ。これから
決勝戦を行う」。500メートルばかり先の長尾峠を右折して仙石原に抜ける峠道がそれである。峠で2台が並び、先ずはトンネルを抜ける。
トンネルから先は道幅が狭くトンネルを抜けるまでに先に出た方が断然有利になる。「Go!」と叫んだメグの合図で両車がカッ飛んで行った。
トンネルの中はエンジン音と排気音が混じり合い、また2台の音が混ざり合い轟音を響かせている。トンネル出口には峠の茶屋があり、
そこから左に折れている。右車線からパガーニがインを狙った。R8のフロントフェンダーをぶっ飛ばして強引にインに入り込んだ。
R8も譲らずパガーニを押しのける。コーナリング体制に入ったパガーニは堪らずアウト側に弾き飛ばされた。そして茶店に突っ込んでしまい、
茶店もろとも裏の崖へと墜落していった。あまりにもあっけない結末となったが、メグの目の前で決着がついたのだった。
結局この街道レースは山田良人の新型アウディーR8がキズだらけとなりながらも勝利を掴んだ。
一方、メグは不気味な笑いを残して自家用ヘリ(アパッチ)で去って行った。あたかも次のレースを想像しているかのように……



Akky's イレブン(前編)
第一章 命拾い
前作Akky's セブンでスイスのチュリニ峠で転落したAkkyとヤマンタは雪深い谷底で瀕死の重傷を負ってしまったが、
車内に張り巡らされたロールケージと6点式フルハーネス・シートベルトに守られ死なずにすんだのだった。
所変わって、日本/横浜の平沼町というところに老舗の蕎麦屋「角平」がある。ここはめっぽう、つけ天の
美味い店である。この角平の裏に貸席を営んでいる「飯須賀」があるのだが、ここのセガレは包茎二校を
卒業して建築家を目指しイタリアへと修行の旅に出るのである。しかし世の中そんなに甘いものではない。
建築の勉強をするにも喰っていかねばならず、包茎二校の時にキャプテンをやっていた剣道を教えながら
建築事務所で働くも将来の見通しのたたない日々をおくっていた。そんな時にスイスから遊びに来ていた
美しいバレリーナ・ナターシャと出会うのである。二人が恋に落ちるのに、それほど時間はかからなかった。
ナターシャは日本男児・ヨシノブの逞しさと優しさと誠実さに惹かれ、いつしか肉欲にも溺れこんでいくのであった。
そんな二人が冬のバカンスにスイスに遊びに来ていた。別荘の裏庭で雪降る中、寒さにもめげずに激しく愛し合って
いたさなかに、自動車が降ってきたのだからビックリ仰天トコロテンである。この二人にAkkyとヤマンタは
助けられ、二人の住家であるレマン湖の畔で半年間かくまわれることになる。意外にもヨシノブの家系は
とんでもない奴らと交友があったので、彼を交えてこれからの作戦をこの半年間でじっくりと練り上げた。
今度の作戦は以前の7名では不足の為にヨシノブを含めて、あと4人必要であった。Akky's-11である。
第二章 作戦準備
北海道/日本 : ここは5月だというのにまだ寒い札幌大通り公園。Akky's-11の狙いはここにあった。
青森県八戸の四菱商会勤務の岩原仁(メグミ)は今日もつまらなそうに仕事をしていた。…とそこに一本の
電話が入った。スイスのヨシノブからだ。「この夏から札幌大通り公園の大規模な改修工事が始まり、測量班を
向けるので機材の調達をしてほしい」。じつはこの二人は横浜での幼なじみであった。
二週間後に測量班が来た。みなとみらい土木の石塚と下っ端の行夫だ。先ずは機材のチェックをし、
作業着に着替えて大通公園へと向かった。怪しまれないように改修工事に使う地図を広げて、計画の実測に
取りかかった。狙いは札幌時計台の中に仕組まれているお宝だ。それをどうやって盗み出すかシュミレーション
しているのである。実はヨシノブ家はねずみ小僧を祖先にもち、かのアルセーヌ・ルパン家とも交流がある。
北海道で名を馳せた「少年よ大志を抱け」のクラーク博士はルパン二世だったのである。そのルパン二世が
盗んだ物が物だけに海外に持ち出せずに、この時計台に仕込み隠したのであった。そいつを頂こうというのが
今回の計画である。ではそのお宝とは何か。コトも有ろうに天皇家に代々伝わる「三種の神器」であった。
八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/草薙剣)だ。
草薙剣は時計の長針に、勾玉は長短針の中心部に填め込まれ、鏡は天照大神が岩戸を開けた時のように、
真夜中に時計盤を照らしている.
第三章 WRC・ラリーJapan
2006年9月、世界ラリー選手権の第12戦が今年も日本で開催される。ラリーカーやタイヤに部品に機材などが
500トンから空輸されるのだ。それだけではない、レーシングドライバーをはじめ各チーム・スタッフやタイヤなどの
関連メーカーの技術者やプレス(報道)関係者などが世界中から集結してくる。もちろんラリーファン(おもにヨーロ
ッパ人…ヨーロッパではF1よりも人気がある)も大挙して来るので、この時期、帯広や陸別では1年前から
ホテルや旅館が満杯となり、かえって日本人が見学に行けないという珍現象がおこるのである。
そしてこのラリーにAkkyとヤマンタがホンダS2000/トレーシースポーツ製フルエアロ装備車でエントリーしていた。
チームのサービスカーは例によって三菱ジュピターの改造車だ。運転手はこれといって取り柄のないヨシミで
助手席には小柄なノリが、ハイテク装備された荷台にはコースケが忍んでいる。中国にいるベーオカは香港
マフィアを操り、日本のヤクザに警察の動きを逐一監視させて、その情報はコースケのパソコンでお見通しだ。
さて、いよいよラリーが開始されるが、ゼッケン@はもちろんシュトローエン・クサラを駆るセバスチャン・ローブ。
Aはフォードに乗るマーカス・グロンホルム、Bはマルコ・マーチンに変装したAkkyとヤマンタだ。マルコは2年前に
コ・ドライバーを死亡させて以来、仕事を干されてやけくそになり、行方知れずとなり好都合だった。
最初のスペシャルステージは札幌郊外ゴルフ場の外周路6.8`のターマックだ。このステージではゴルフ場が
ギャラリーに解放されて、2万3000人の見物客で鈴なり状態の大にぎわいである。ここで抜き出たのがAkky扮す
るマルコ・マーチンのS2000だった。前日の雨と濡れ落ち葉でスリッピーな路面に足をとられ、先頭を走るローブと
グロンホルムはスピンを回避するのがやっとの走りだった。この2台に掃き清められた路面でAkkyは走りやすくなり、
二人に13秒もの差を付けてしまった。この番狂わせにプレス関係者やラリーファンは色めき立った。
ヘリを飛ばしテレビ中継を大幅に増やしたりで、道民はテレビに釘付けとなり市街地には人影がまばらだ。
Akkyたちの作戦はまんまと成功した。これで時計台付近にも通行人は居なくなった。
第4章  時計台
一方、札幌時計台には爆破のプロであるゴリが到着していた。スイス銀行では音のでない爆破を披露したが、
今度はもっと進化させた爆破時の閃光も出ない爆薬を開発した。分厚いチタンで作られた厳重な時計台の扉に
大きな穴を開けてしまったのだ。その穴から小柄なノリが時計台に忍び込んだ。実はノリの体には星飛雄馬が
付けていた「大リーグ養成ギブス」をアレンジした「赤外線通り抜けギブス」が付けられている。時計台の階段中に
張り巡らされた赤外線をすり抜けるために、コースケのパソコンからギブスに指令が飛び、ノリの体は指令通りに
動く仕組みになっている。ノリは目をつぶっていれば自然に体が動いて赤外線を避けて頂上にたどり着いた。
そして何度も何度もトレーニングしたシュミレーション通り、なんなく三種の神器を奪ってしまったのである。
つづく



サファリ・イン・キョート

前夜祭

1972年、日本での最高峰と言えるラリー「サファリ・イン・キョ−ト」が
開催される運びとなりました。主催者は関西きってのオルガナイザー「チーム・サファリ」である。
この倶楽部はハッキリとしたポリシーを持っているが、それは会長の佐藤○哉氏の信念に他ならない。当然ながら。
このビッグラリーは日本ラリー選手権(JAF戦)に組み入れられているのだが、
佐藤氏の信念にJAFが「待った」を掛けて3年間も開催されずじまいだった。
その佐藤氏の信念とはヨーロッパ形式のラリーこそラリーであると言うものだ。要するに速い者勝ちである。
全てSS(スペシャルステージ)で決着を付けようと言うことだ。JAFは危険すぎると言う理由で長年認可しなかったのである。
しかしラリーはスポーツであり(モータースポーツ)毎年申請されるこの競技を拒み続ける
理由が見つからず、とうとう開催の認可を下したのであった。
日本のラリーストなら何が何でも出たいレースである。しかしながら出場できるのは日本中からシードされた
精鋭50チームに限られるのである。今までの実績で選考され出場許可が得られるのだ。
当然ながらAkky選手も参加していた。ほとんどの有名エントラントがキャリアカーでラリーカーを運び、サービス隊も
物量作戦で臨んでいた。ところが貧乏この上ないAkkyは横浜から京都まで下道の国道をタラタラと走り続けて参加に
臨むのであった。
サービス隊もCAMの部下3人のみで、三食の餌で引きずり込んだのだ。
レース前日に京都の一流ホテルでドライバーズ・ミーティングが行われ、前夜祭のパーティーが繰り広げられた。
それぞれ豪華パーティーに酔いしれアバンチュールに没頭するも、Akkyは冷静さを失わず、迫りくる京都美女たちを
そつなくかわしパーティー会場を後にするのであった。

決戦

このラリーは峠道がステージで、地域住民や役所・警察との連携を密にして土曜日と日曜日の昼日中にコースを
完全封鎖して行われた。
全国から報道関係者も集結しギャラリーと合わせて全てのステージで鈴なりの状態である。
全開出走中にカメラの放列が止むことがなかったほどだ。参加者も有名人ばかりで、篠塚健次郎・岩下良雄・綾部・竹平・
永山・加勢・斉藤昭義・高岡・高崎・山内信也・大庭誠介など数え上げたらキリがない。
スタートして間もない第三SSをAkkyは全開で駆け抜けていた。
すると絶好のギャラリーの喜びそうな左・中速コーナーで報道陣による猛烈なフラッシュの嵐に、不覚にも一瞬視覚を
失ってしまい、スピンするも立て直しにかかったが
惜しくもイン側の土手を掛け上ってしまったのだ。プレス関係者の絶好の餌食となり、後に発売されたオートテクニック誌の
表表紙を飾ることになった。殴り書きの大きな見出しは「Akky選手の崖クライム」であった。
なんと言ってもこのラリーのハイライトは奈良県の大台ヶ原だろう。
下から上って頂上で止めずに、反対側の麓まで一気に駆け抜けるのだ。
40km有り集中できる範囲を越えていて、かなりのマシーンがコースアウトや転倒で脱落していった。
頂上のトンネル越えも最大の難所といえる。
1km以上あるトンネルは簡易舗装がされていてストレートコースだ。
150`オーバーのスピードが出るのだが、トンネルを抜けると直ぐに直角の左カーブとなっている。
もちろんトンネルを出たところからはスリッピーな砂利道が待ち受けている。減速に失敗すると深い谷へと真っ逆さまに
ダイブすることになる。
そこでトンネル出口の距離を逆算して、ナビゲーターが読み上げるのだが、
我々は出口の300メートル手前からブレーキングを開始した。
ナビが300と言ったと同時にフルブレーキングし、そのまんまの状態でシフトダウンをしていく。 250…200…150…100…と残りの距離を聞きながらの減速でヘルメットの中は冷汗でグッショリとなり、ブレーキペダルを踏み続けている右足の裏も
ジト〜っと汗が噴き出しているのが感じ取れる。 100…50…? あれ?????…止まっちゃった。
恐怖のあまりブレーキングの距離を多く取りすぎて出口の50メートル手前で停止してしまった。
な〜んだ、それだったら、あと50メートル詰められたな〜と、お思いになるでしょうが、それが出来ないんですね。
しくじったら最後さよ〜なら〜、オデコに白い三角巾を付けることになるでしょう。
無事にラリーを完走し、結果は17位で雪のビッグイベント”志賀高原ラリー”と同順位であった。
表彰式が終わって、流石に帰途は運転して帰る気力も体力もなくなり、積載車に積んで帰ることにした。
しかし予算の関係上、電車賃も無いのでキャリアカーの中に忍び込んで帰ることになった。我がマシーンは
上段に積まれていて、山道のカーブの度に左右に猛烈にロールし完全に酔っぱらってしまった。
船酔いと同じで大変な思いをしたもんだ。寝てしまえば大丈夫だろうとの作戦に打って出た。ふと目を覚ますと
高速道路に入っていて、これまた大変な怖い思いをするのだ。
トンネル、しかもカマボコ型ではなく長方形のトンネル、ここに進入するときの怖いったらない。キャリアカー上段の
車内から見ると、目線が丁度トンネルの上辺に来て首をチョン切られそうで思わず「アワワァ〜」っと、
のけ反ってしまうのだ。まぁ、いろんな経験をさせられたラリー遠征でした。




サーキットの狼

第一章 プロローグ

Rakky坊やは戦後まもなくして横浜・杉山神社のそばの支那ソバ屋で生まれました。
近所のガキ大将ではありましたが強きをくじ弱きを助けるという一心太助のようでした。
その5〜6軒隣に一回り年上のX西少年が住んでおりましたが、後に宿敵となろう事は夢だにも思いませんでした。
彼は杉山愚連隊に属しておりましたが、兄貴分の後ろをくっついて金魚のフンみたいで弱い者イジメ専門した。
また別の名をカメ西(出歯亀のX西の略)
とも言われておりました。

第二章 街道レーサー

時が過ぎ、Rakky青年は明智大学へと進みました。
彼は自動車には興味が有りませんでしたが、同級生のヤマンタ君が通学時に自動車のことを教え込むのでした。
お陰で免許証を難なく取得し、サニークーペを購入する事になります。
やはり同級生で自動車技術研究部(後に本田技研の大幹部となる)のホンダ早一漏君が
サニークーペに目を付け、Rakky青年をだまくらかして改造へと突き進むのでした。出来上がったマシーンは
Rakky号と名付けられました。
一方、カメ西は正職に着くことなくポンビキや美人局で生計を立て、暴走族「本牧党」の一員となり改造車・スカイラインGTRを隠し持つのでした。深夜になるとスカGを
持ち出しては、伊勢佐木町商店街メインストリートを隊列をなして我がもの顔に突っ走るのでした。
本牧〜根岸の16号線も格好のサーキットと化します。勿論、赤信号でも突っ走ります。
深夜のタクシーなどは歩道に乗り上げて待避します。時を同じくしてRakky青年も夜な夜なマシーンの性能を
チェックすべく挑戦者探しに市街を流すのが常でした。いつも助手席にはヤマンタ君がいました。
面白いもので戦いを挑んでくる者が いつの間にか集まって来るものです。スーっと横に並びギヤーを
ニュートラルにして空ブカシをします。ブオーン・ブオーン。
一丁ヤロウゼという合図です。すかさず此方も負けずにブオーン・ブオーン、目と目が合った瞬間に
一速にぶち込み猛発進 します。ほんの10秒足らずで決着が付くのですが、これがまた超快感で
止められないんです。彼らのことを人呼んで 街道レーサーといいます。街道レーサーには一匹狼が
多いのが特徴で、本牧党のように群ません。 いつしかRakkyの名が轟き渡り、カメ西が挑戦状を叩き付けてきました。
「○月○日、AM2:00第三京浜で決着を付けよう」。
ここは逃げるわけにはいきません、あの卑怯者のカメ西のことです、
何をするか分からないのでヤマンタ君には知らせずに 単身乗り込むことにしました。するとどうでしょう!
100台余りの本牧党員が殺気だってたむろしているではありませんか。
全てシャコタンで見せかけのロールバーが入りストレート・マフラーです。第三京浜下り線の2車線を使い
隊列を整えます。 先頭にはRakkyと本牧党頭領のオッコが並び、その後ろにカメ西達が続きます。
大きな本牧党の旗を持ったスターターが 前に出てきました。いよいよスタートです。
旗が振り下ろされ猛然とダッシュします。後方ではスタートに失敗した車に
次々と追突して半数近くが脱落してゆきました。流石に頭領のオッコだけあってスタートで
Rakkyの先に出ました。 オッコはフルチューンのSR(フェアレディ2000)で引き離しに
掛かりますが、Rakkyはすかさずスリップストリームに入り込み バンパー・ツー・バンパーでピタリとマークします
…が後方からカメ西のスカGがパワーに
ものを言わせてにじり寄ってきて 我々の前に出ました。しかしそこはもはや第三京浜出口の
ゲートに近く、急ブレーキを掛けますが300`近いスピードから のブレーキングで
コントロールを失い横滑りをしながらゲートに激突しました。Rakkyとオッコは200`の
スピードでゲートを すり抜けて行きます。三ツ沢の下りカーブにさしかかり巧みなドリフトで
オッコをかわしたRakkyは国道1号線を南下しました。権田坂の頂上に来ると前方から両車線いっぱいに
2台のブルドーザーが此方に向かってきます。
このままだとブルの餌食になってしまいます。ヒール・アンド・トーで4速から1足まで素早く落とし、
強烈なスピンターンを掛け、後方のオッコをUターンしてスルリと交わしました。今度は前方から手下の車に
乗り換えたカメ西たちが見えたので、いすゞ自動車戸塚寮への脇道を駆け登り、本牧党をまいてしまいました。

第三章 サーキットの狼

30数年の時が流れRakkyは50歳を過ぎていました。
今ではすっかり落ち着いてホンダS2000でのツーリングが唯一の楽しみとなっていました。
そんなある日、本屋でふと目に留まったのが「ハイパーレブU」の表紙を飾った一枚の写真でした。
タイトルが「暴走よさようなら、サーキットよこんにちは」で、なんとあのカメ西とオッコの顔が大写しで
出ています。そして来週のFISCOでの走行会で挑戦者を募っているのでした。
Rakkyは早速エントリーをしました。三人は久々の再会を祝い、熱いバトルが繰り広げられました。
以後、この熱い戦いは繰り返されますが、いつしか人々は彼ら三人のことを
サーキットの狼と呼ぶようになりました。




「Akky's  7(アッキーズ・セブン)」

某年某月、 Akkyは生きては出られないと言われる監獄「ザ・ロック」からの脱獄に成功した。
計画に加わった仲間はAkkyを含めて7人、CIAとFBIは彼らのことを敬意を込めてAkky's 7と呼んでいる。
Akky:正体不明、東洋人? デューク東郷の別名を持つ。
ヤマンタ:緻密な計画を練るのを得意とする香港系中国人で頭脳明晰でクール。
ゴリ:マダムキラ−イの威名を持つアフリカ人で爆破のプロ。
コースケ:シチリー島出身のイタリア人で超一流ハッカー。
ノリ:モンゴル人。モンゴル相撲のチャンピオンで格闘要員。
ベーオカ:中国深浅に居を構えるユダヤ人で世界各地に情報網を持つ。
ヨシミ:これといって取り柄のない日本人、何故か一緒に脱獄した。

第一章 脱獄
「ザ・ロック」とは絶対に脱獄など出来ない、させないという意味なのである。従ってここに投獄されるヤツらは、
アメリカが威信にかけても一生涯逃がしてはならない犯罪人たちなのである。
では何故彼らが脱獄できたのかは、後にショーン・コネリーが映画でその手口を披露しているので、
賢明な読者は其方を参考にしてほしい。獄中でもその筋で知られた者は一流同士で引きつけ合うもので、
このザ・ロックの中でも例外ではなかった。Akkyは何年も前から或る計画を持っていた。
その計画に必要なメンバーが彼らなのである。その計画を実行するには彼ら無しでは遂行できないのだ。
Akkyは彼らを集めるためにわざわざCIAに捕まったのである。案の定、ザ・ロックに投獄され、
まんまと脱走までやってのけたのだ。この脱獄だけでも一本の映画になるくらいだから、どんなに大変か想像がつくだろう。
実は、ここの刑務所長が曰わく付きの悪で、計画の上がりの10%の餌で手引きをしたのである。
成功すれば一生遊んで暮らせるだけの金額である。この所長は誰あろう、あのカメ西だった。
カメ西といえば日本では箸にも棒にもかからない極道者だが、さすがにアメリカは使い方を心得ている。
毒には毒をもって征せよか…。


第二章 モンテカルロ
某年1月、モンテカルロ…モナコ毎年1月にWRC(ワールド・ラリー・チャンピオンシップ /
 世界ラリー選手権)の第一戦が、ここモナコで繰り広げられる。初戦のため、どの自動車メーカーも
必勝の態勢で望むので熱戦となり、ギャラリーの多さでも有名である。
雪道でのレースとなり、タイヤとスパイクの選択が勝敗の別れ目ともなる。このラリーに一台のホンダS2000が
エントリーしていた。ドライバーはAkkyでコ・ドライバー(ナビゲーター)はヤマンタである。
これにサービス隊として重装備の三菱ふそうジュピター・ウィング仕様車だ。
荷台は大幅な改造が施されており、動く司令塔と言ったところだ。何と言っても主役はコースケでSTEPで作らせたパッケージに
ハッカー用機材がビッシリと埋め込まれている。運転手は取り柄のないヨシミで助手席にはノリが座っている。 
時を同じくして隣国のスイスにはゴリが潜入してい
る。ICPOに追われているゴリがまんまと潜入できたのは、中国深浅からベーオカが欧州中のヤミ組織を
動かしていたからに他ならない。勿論インターポールの上級幹部をも黙らせているのだが。
モンテカルロ・ラリーがスタートした晩、ゴリはスイス銀行の前にいた。堂々と正面玄関を爆破したのだ。
しかもゴリの編み出した音のしない爆破技術で。一方、ラリーカーはモナコとスイスにまたがる
チュリニ峠をカッ飛んでいた。サービス隊のジュピタートラックは、チュリニ峠をスイス側に大きく下っていた。
その中からスイス銀行のセキュリティーを解除し、ゴリの目に埋め込まれたカメラを通して貸金庫も難なく開けてしまった。
彼らの狙いは厳重に保管されている4個の超小型ICチップだったのだ。ICチップを鷲掴みにしたゴリは止めてあった
スズキ・アルトワークスに乗り雪煙を巻き上げて走り去り、チュリニ峠下の村外れでアルトを捨て
ジュピターに乗り込むのであった。4個のICチップはそれぞれ4本のスパイクタイヤの内側に取りつけられ
ホイールに組み込まれた。そこにミスコースをした1台のラリーカーが来たのだが、
それはAkkyのS2000で素早く4本のタイヤ交換が行われた。
そしてこの2台はラリーコースへと復帰するのだった。そのころスイス銀行周辺は大騒ぎで警察の検問が
至る所で行われていたが犯人は捕まらず、結局ラリー参加者も取り調べを受けることになった。
特殊金属探知器でICチップを探し始めたが、スパイクピンとICチップの材質を合わせて
おいたのでチップが見つかることはなかった。ラリー関係者の検査が終わりかけた頃、サービス隊の方が騒がしくなった。
ゴリの正体がバレてしまったのだ。ノリが警官隊を千切っては投げ千切っては投げしているのだが、一人で1000人を
相手では勝ち目が無く、とうとう4人とも捕まってしまった。当然Akkyにも火の粉が掛かるわけで、ここは逃げの一手である。
ラリーカーS2000に飛び乗ったAkkyとヤマンタは雪の山道へと突き進むのであった。
流石にヤマンタのナビゲーションは鋭く完璧かに思えた。が…、警察はワークスラリーカーで
追いかけてきたのである。しかもドライバーはマキネン、サインツ、マクレー、オリオールの面々だ。彼らはラリーより面白がり、
猛烈なドリフト合戦を楽しんでいた。15分もするとワークスドライバー連中に追いつかれ、手に汗握るバトルとなり、
3時間後に運転操作を誤ったS2000は谷底へとまっしぐらに転落してしまった。
ここは丁度、グレース王妃が転落死をしたカーブだった。後にこのコーナーをAkkyコーナーと呼ばれるようになる。
群馬県赤城山にも似たような名前のコーナーが有るのだが…。警察の必死の捜索にもかかわらず、Akkyとヤマンタは
発見されなかった。彼らは今も何処かで次の計画を練っているのかも知れない。そう、あなたの側で。




「指揮官」 

ゴリは名門スインラン高校の一年生ではあるが名三塁手であった。ところが夏の地方大会の決勝戦で
あのRakky擁する横幅高校と激突し、平凡なフライを落球して大敗の原因を作ってしまった。
翌日、マスコミがゴリのエラーを大々的に報じる中ヤマンタ監督はゴリを二軍へと落としてしまった。
案の定ゴリは「落球のゴリ」とレッテルを張られたまま二度と這い上がれることはなかった。
それ以来ゴリは笑顔と明るさが消え失せ、しょぼくれた人生を送るのであった。ヤマンタ監督は腹いせや世間体で、ミスを犯した人間を
葬り去ってしまったのだ。なぜ制裁ではなく、挽回のチャンスを与えげなかったのだろう。失敗した人間は、何かで返したいと願って
いるのに。一方、甲子園出場が決まった横幅高校は一回戦で徳島の包茎二高と対戦が決まった。
松坂の再来とまで言われたRakky投手が好投したが、タガヤス内野手が致命的なエラーをしてしまった。
彼はその夜、酔っぱらってボロボロ泣きながら「許してくれ」と土下座をして謝りまくった。Rakky投手はにこやかに彼の手をとり「来年こそ
打って返せばぁ」と慰め励ました。なんとヤマンタ監督との違いでしょう。挽回のチャンスを貰ったタガヤス選手は、
翌年の甲子園での優勝に向け大活躍したのは言うまでもありません。
部下の人生を一度のミスで終わらせないためにも指揮官は挽回のチャンスを与えるべきだ
ということを、ヤマンタ監督は気付かないまま短い生涯を終えることになったのでした。




「ノンバンク」

SPETのRakky社長は今月の支払日に50万円足りなくなり金策に走り回りましたが、
左前になった彼には誰も貸してくれませんでした。追いつめられたRakky社長は、電話一本で即融資する
(090金融)に手を出しました。ゴリと名乗る男が現れ「元金の返済はいつでも構いませんが、利息は毎週10万円
納めて下さい」。年利で1000%ですが、借入額が小さかったこともあり気にしませんでした。
トラブルが起きたのは一ヶ月後のことでした。社長が体調を崩し寝込んでしまったのです。
気になって自宅から男に何度も電話を掛けましたが、そんな時に限って一向につながりません。
すると夜になって男の方から電話があり、「借金を踏み倒す気か!」と怒鳴りつけてきました。
翌朝不安をだかえながら会社に向かっている途中に自宅から携帯に電話が入りました。
安子婦人は取り乱しながらも言いました、借金取りが家に上がり込んできたそうです。
しかも別の借金取りが、南お嬢様の通う学習院女子中学校にも現れていました。会社に着くと大混乱していました。
あちこちの仕入先から「うちの会社に怪しげな人物が来た、おたくは一体何をしたんだ」という電話がジャンジャンです。
真っ青になったRakky社長は男と連絡をとろうちしましたが電話はつながりません。
その時になって金融業者の住所を知らないことに気付きました。これが悪徳金融業者の手口です。自宅や取引先企業に
乗り込んでいながら、わざと携帯電話のスイッチを切っておき、借り手の不安をあおるのです。不安がピークに達した頃に
連絡を取れば言うがままです。その時も夕方になってようやくゴリから連絡がありました。
呼び出された場所に出向くとゴリは「違約金を合わせて300万円払え」と要求してきました。
「金がない」とRakky社長が答えると、金融業者の並ぶ雑居ビルを指さして「あそこで借りてこい」と言いました。
言われたとおりにした社長の手元には300万円の借金が残りました。
その後、社長は借金の返済のために別の金融業者からカネを借りることを繰り返し、
三ヶ月後には借り入れが2000万円を超え会社は自己破産に追い込まれました。